第9話「任せるか、任せないか」
現場に出て、3ヶ月目に入ろうとしていた。
青年は、もう「完全な新人」ではなかった。
だが、「一人前」と呼ぶには、まだ早い。
第8話で、文化の違いに戸惑いながらも、青年は少しずつ日本の現場のルールを覚えてきた。
自分の持ち場を守る。
勝手に判断しない。
それでも、必要なときには周囲を見て動く。
そして何より――。
「やりたいこと」ではなく、「やるべきこと」を優先する。
その感覚が、少しずつ身についてきていた。
だが、次の段階には、もう一つ大きな壁がある。
それは――
「任せる」ということだった。
ある朝。
九郎は青年を呼んだ。
「今日はここ、お前メインでやれ」
青年は、一瞬だけ固まった。
だが、すぐに頷いた。
「……はい」
周囲の視線が、わずかに集まる。
九郎は何も言わなかった。
(来たな)
「任せるか、任せないか」
その試験が、始まった。
作業開始。
青年は、以前のように、いきなり動かなかった。
まず図面を見る。
資材を確認する。
周囲を一度見渡す。
そして――。
「ここ、自分やります」
「そこ、お願いしていいですか?」
指示を出した。
まだ少しぎこちない。
声も小さい。
だが、間違ってはいない。
ベテランは何も言わない。
ただ、黙って従った。
九郎も口を出さなかった。
(いいぞ。そのまま行け)
30分ほど経った頃だった。
小さなズレが出た。
「そこ、先じゃねぇだろ」
ベテランが低い声で言う。
青年の手が止まった。
順番が違っていた。
効率を考えるあまり、「現場の流れ」を外していた。
以前なら、ここで自分の判断を説明しようとしたかもしれない。
だが――。
「……すみません。やり直します」
すぐに引いた。
九郎は、その様子を見ていた。
(修正が早い)
それは、以前の青年にはなかったものだった。
昼前。
作業は予定より少し遅れた。
だが、大きなミスはない。
昼休み。
「どうだった?」
九郎が聞いた。
青年は少し考えてから答えた。
「難しいです」
「そうだろうな」
「考えることが多すぎて……」
「それが、任されるってことだ」
青年は弁当を食べながら、しばらく黙っていた。
そして――。
「でも……面白いです」
九郎は少しだけ驚いた。
(余裕が出てきたな)
午後。
作業が再開する。
今度は、周囲への声掛けが増えていた。
「ここ、次これやります」
「終わったら教えてください」
「そこ、確認してもらっていいですか?」
小さな連携。
だが、それが現場をスムーズにする。
しばらくして、ベテランがぽつりと呟いた。
「……悪くねぇな」
それは、はっきりした評価ではない。
だが、否定でもなかった。
作業終了。
時間は、ほぼ予定通りだった。
九郎が聞く。
「どうだ。自分でやってみて」
青年は大きく息を吐いた。
「怖いですけど……」
少し間を置いて、
「やった方が分かります」
「だな」
帰り道。
夕方の風が、少し変わっていた。
「任せるって、こういうことですか?」
青年が聞く。
九郎は答えた。
「一部な」
「全部じゃないんですか?」
九郎は首を振った。
「全部任せるのは、まだ早い」
「……はい」
「でもな」
九郎は少し笑った。
「今日のは、半分合格だ」
青年も少し笑う。
「半分ですか?」
「半分で十分だ」
数日後。
同じような機会が、もう一度来た。
今度は、少しだけスムーズだった。
指示が早い。
判断も迷わない。
そして何より――。
「確認していいですか?」
その一言が増えていた。
勝手に決めない。
だが、止まりもしない。
(バランス、覚えてきたな)
九郎はそう思った。
4ヶ月目に入る頃。
現場の中で、青年の立ち位置が少しずつ変わっていた。
「これ、あいつにやらせてみろ」
ベテランが九郎に言った。
その言葉の意味は分かっていた。
――任せてもいい。
それは、現場からの小さな信頼だった。
だが、その頃から、別の空気も流れ始めていた。
「そろそろだな」
別のベテランが言った。
「何がですか?」
「続けるか、帰るかだよ」
青年は黙った。
契約。
期間。
将来。
それまで漠然としていたものが、少しずつ現実になってきていた。
その日の帰り道。
「ここに残るって、どういうことですか?」
青年が聞いた。
九郎は少し考えた。
「簡単に言えば、“戦力になる”ってことだ」
青年は黙っている。
「逆に言えば、それが無理なら終わりだ」
青年が下を向いた。
「自分、なれますか?」
九郎は、すぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
「なれる可能性はある」
「……可能性」
「でもな、それを決めるのは俺じゃねぇ」
「誰ですか?」
九郎は前を向いた。
「現場だ」
青年は何も言わなかった。
ただ、歩く速度だけが少し遅くなった。
アパートの前に着く。
青年は、いつものように深く一礼した。
「明日もお願いします」
「おう」
ドアが閉まる。
九郎は、その場にしばらく立ち止まっていた。
(任せるか、任せないか)
それは、もうすぐ決まる。
そして、もう一つ。
(こいつ自身が、どうするかだな)
残るのか。
戻るのか。
その選択も、近づいている。
そして、もう一つの「期限」
九郎は、ふと考えた。
この青年は、特定技能で日本に来ている。
特定技能1号は、最初から「5年間働ける」という意味ではない。
原則として、特定技能1号で日本に在留できる期間は通算5年まで。
その間、在留期間の更新を受けながら働き続けることになる。現在の制度では、在留期間は個々に指定され、更新を続ける仕組みだ。
つまり、会社にとっても、外国人本人にとっても、
「この先も、この人と働いていくのか」
という判断は、決して遠い未来の話ではない。
一定期間ごとに、契約と在留の両方を確認していく。
そして、仕事ぶりに問題があれば、会社側が次の契約を更新しないという「雇止め」という選択肢もある。
ただし、ここは誤解してはいけない。
契約期間が決まっているからといって、会社がいつでも自由に更新を拒否できるわけではない。
過去に何度も契約が更新されていたり、本人が「これからも更新される」と合理的に期待できる状況になっていたりする場合には、雇止めにも一定の法的な制限がある。
それでも――。
正社員のような無期契約とは違う。
契約期間が一つの区切りになることは間違いない。
だからこそ、現場で働く外国人にとって、
「自分は、この会社に必要とされているのか」
という問いは、日本人以上に切実なものになる。
そして、それを判断するのは――。
履歴書でもない。
面接でもない。
資格でもない。
毎日の現場での仕事だ。
挨拶。
仕事の正確さ。
周囲との連携。
指示を守ること。
そして、少しずつ自分で考えて動けるようになること。
それらが積み重なって、
「この人に任せても大丈夫だ」
という信頼になっていく。
九郎は、そんなことを考えながら、青年の閉じたドアを見つめていた。
夜の空気。
少し湿っている。
季節が、変わり始めていた。
「任される側」から、
「任せられる側」へ。
その線は、もうすぐ目の前だった。
そして、その先には――。
この現場に残るのか。
それとも、別の道を選ぶのか。
青年自身が決める時が、近づいていた。
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